初期のバーチャルリアリティ (VR) 技術では視聴覚のみの提示が行われており,人は目の前にあるモノに触ることができませんでした.最近は触覚・力感覚提示の研究が盛んに行われるようになり,この状況は次第に解消しつつあります.しかしながら,我々人間の五感のうち,嗅覚や味覚の提示技術は,まだまだです.究極のVR体験とは,五感をフルに活用するものとなるでしょう.
触覚・力感覚インタフェースの発達によりVRの「臨場感」は飛躍的に高まりつつありますが,それでも我々はその場にいるような「空気」を感じることができないため,いわば宇宙服の中での体験のようなものです.究極のVR体験のためには嗅覚と味覚のどちらも重要ですが,匂いは固体や液体との接触を伴わなくても感じることができるため,嗅覚の提示の方がいろんな場面で使用されやすいと考えられます.このため,私たちはまず匂い提示の分野に取り組むこととしました.
VRアプリケーションの中で嗅覚提示を行うためには,解決しなければならないたくさんの問題が存在します.一般にある種の感覚を通して人の「体験」を再現しようとすると,いくつかのステップが存在することがわかります.つまり,感覚を生じる物理的(化学的)刺激の検出,その符号化,記録と伝送,再生・合成,そして最終的な提示手段です.嗅覚についても,これらのステップすべてで課題が待ちかまえています.
実は,嗅覚の提示にはとても困難な壁が存在します.視覚の場合には,「光の3原色」(赤,緑,青)の強さのバランスを調整することで任意の色を表現することができるため,符号化手段が人間の生理学的知見により保証されています.触覚についても,皮膚下に存在する数種類の機械受容器(Meissner小体,Merkel細胞,Pacini小体など)を独立に刺激することで任意の触感覚を実現する手法が提案され,実現に向けて研究開発が盛んに進められています.けれども,嗅覚の場合,そのような仕組みは見つかっていません.つまり,少数の匂いの素(「原臭」)を混ぜ合わせることで任意の匂いを合成するという考え方が成立せず,原則として「そのもずばり」の匂い物質を用意してやらなければなりません.匂いを検出する受容タンパクの種類は1000種類程度(マウスの場合.Buck & Axel 1991 による.その後の遺伝子解析により,人間の場合は約350種類と言われる),人間が検出可能な匂い物質の種類は数千から一万以上に及ぶと言われており,これだけの種類の物質を自在にブレンドする装置を作らなければならないとなると,将来的には不可能ではないと思いますが,大変です.
そこで私たちは,この難しい問題をひとまず置いておき,匂いをどうやって人間に届けてやるかという,上の図における最後のステップに注目しました.VR型視覚提示で言えば,ヘッドマウントディスプレイ(HMD)や,没入型投影ディスプレイ(IPT),裸眼立体ディスプレイのような役割を担う部分です.この領域,視覚提示ではいろんなバリエーションがありますが,嗅覚提示の場合はほとんどが単純に拡散させるだけのものでした.ある程度長時間一定の匂いを嗅がせるにはそれでよいのですが,例えば視聴覚コンテンツに同期して場面が切り替わったときにハッと違う匂いを嗅がせたり,人間の行動に合わせて匂いを制御するような場合には,不十分です.
近年,コンピュータ制御が可能な匂い発生装置がいくつか開発されており,発生した香り付き空気を鼻先まで導くことにより,上記の要求を満足させるような香り提示システムが見られるようになりました.とはいえ,実際に使用する場面を考えると,テレビや映画に香りをつけるために,わざわざチューブの先を装着するのも面倒です.このような背景を元に,研究開発の目標を設定しました.
私たちが設定した目標は,次のようなものです.
非装着のメリットは,言うまでもないでしょう.視覚提示にHMDを利用する場合はチューブで鼻先まで香りを運ぶ方が確実ですが,普通にテレビを見ているような場合では,何も装着しないに越したことはありません.局所的であることのメリットは,いくつかあります.まず,時間的な局所性についてですが,従来,香りを単純に空間中へ拡散させてしまうと,一旦放出した香りを消すことが困難で,視聴覚コンテンツと連動して香りを提示しようとした場合,前に出した香りが残ってしまうという問題があります.時間的な局所性を実現できれば,場面の切替に合わせて香りをつけることが可能になります.また,空間的な局所性により,狙った人にだけ香りを届けることができます.使い方によっては,同じ場所にいる複数の人に,それぞれ別の香りを届けることもできます.さらに,時間的・空間的な局所性が実現されれば,使用する香料を大幅に節約することができるため,香料コストの面では有利になると期待されます.
システムのコンセプト
我々は,上記のようなコンセプトを実現するための道具立てについて検討した結果,いわゆる「空気砲」がこの目的のために使用できそうだということを発見しました.空気砲は円形開口を持つ容器で,子ども向けの理科実験教室では有名な題材です.容器の一部を変形させて容積を瞬発的に変化させることにより,開口から空気が押し出されます.押し出された空気はドーナツ状の渦輪を形成し,安定に飛行します.渦輪の射出時に開口付近へ香料微粒子を分布させておけば,香料を渦輪に閉じこる形で搬送することができます.渦輪の飛行距離は開口径の大きさ,射出空気の体積とその速度などにより影響を受けますが,ある程度の大きさを持つ空気砲の場合,少なくとも数mは渦輪を飛ばすことができることを確認しています.
我々はまず,空気砲が狙った人へ香りを届けることが可能かどうかを実験的に調べてみました.被験者2人を並んで着席させ,1.2mほど離れた位置から手作りの空気砲に線香の煙を詰めて渦輪を射出しました.その結果,片方の被験者の顔に命中した煙の匂いを,他方の被験者が感じることは全くありませんでした.基本コンセプトと,この予備実験の結果は,ACM CHI2003 の Interactive Posters で発表しました.
渦輪が自由空間中を飛行する様子のムービーを置いておきます.ペットボトルとゴム風船で作ったペットボトル(口径を少し大きくしてあります)に線香の煙を詰めて,指先でそっと押した時の様子です.理科実験のデモでは,しばしば空気砲の「威力」ばかりが強調されますが,このムービーのようにやさしく香りを搬送できるならば,香り提示の手段として使えそうだと判断した次第です.
Format | Pixels | File size |
Windows Media 9 | 640x480 | 1,850KB |
QuickTime (Small) | 240x180 | 342KB |
試作1号機は,単純な空気砲ユニットです.アクリルの箱の前面に穴を開け,背面にゴム膜を張っています.ゴム膜をソレノイドで叩くことで駆動します.香り発生源として,商用アロマディフューザ (Jacques G. Paltz社製 Hippocampe) を使用し,香り付き空気を空気砲容器内に導入しています.
試作2号機では,鼻追跡機能を追加しました.システムは,空気砲本体と香り発生器,それらを載せる2自由度雲台,およびCCDカメラで構成されます.CCDカメラでユーザの顔画像を撮影し,画像処理により鼻位置を検出・追跡して,その方向に空気砲を向けるよう雲台を制御しています.空気砲駆動機構としては,射出時の音を低減するためソレノイドの代わりにスピーカユニットを使いました(ただし,あまり効率は良くありませんでした).鼻トラッキングには,ATRメディア情報科学研究所五感メディア研究室(当時)の川戸らが開発した実時間画像処理技術を使用しています.
(SIGGRAPH2003 Skethces & Applicationsで発表)
試作3号機では,匂い切り替え機能を追加しました.このシステムは,2003年度ATR研究発表会 (2003年11月 6-7) でデモを行いました.
従来の試作機では香りつき空気を空気砲の本体容器内に導入していましたが,1発の渦輪射出ごとに別の匂いを載せようとすると,これでは匂いが空気砲の中で混ざってしまいます.そこで,空気砲開口の前面に開口と同一径の小筒を設置し,小筒の中に香り付き空気を導入するようにしました.小筒の前後にはシャッタが備わっており,匂いが空気砲本体の中に漏れていかないようになっています.シャッタを閉じた状態で小筒に匂いつき空気を充填し,シャッタを開いた直後に空気砲射出動作を行うことにより,匂いつき空気が完全に押し出され,次に充填する匂いと混ざらないようにしています.また,このモデルでは,十分な押し込みストローク量を得るため空気砲本体にジャバラを使っています.匂い切り替え機構の詳細については,IEEE VR2004の論文に記載しています.
Format | Pixels/bitrate | File size |
Windows Media 9 (Large) | 640x480/variable (‾1Mbps) | 12,111KB |
Windows Media 9 (Medium) | 320x240/340kbps | 3,916KB |
Windows Media 9 (Medium) | 320x240/150kbps | 1,770KB |
Windows Media 9 (Small) | 160x120/48kbps | 610KB |
「香りプロジェクタによる香り場生成」のページをご覧下さい.
英文での発表
和文での発表
報道
本研究は,柳田がATRメディア情報科学研究所在籍時に行ったものであり,このページに記載した研究の成果はATRに帰属します.
(to be written...)